ワッハーブ王国とは18世紀から20世紀にかけてアラブ人によって2度建国された王国の名前でサウジアラビアの国のもとにもなっています。
世界史をあまり知らない人でも一度は聞いたことがあるあの巨大勢力を誇ったオスマン帝国に反旗を翻した国なのです。
現在のサウジアラビアの国教であるイスラム教の元になったワッハーブ派が建国したワッハーブ王国について説明します。
イスラム教の宗派の違い
サウジアラビアの国教であるイスラム教には二大宗派のスンニ派とシーア派があります。
キリスト教でいうカトリック、プロテスタント、仏教でいえば真言宗、天台宗、浄土宗のような感じです。
割合ではスンニ派が多数をしめておりシーア派は少数派、分布はシーア派がイラク中心でそれ以外がスンニ派ということになります。
イスラム教内の宗派ですので、コーランを聖典にする、メッカへの巡礼、断食をするなどの五行はどちらも同じです。
スンニ派とシーア派の違いは、ムハンマドの後継者をムハンマドの血縁者とするかどうかが決め手となっています。
シーア派がムハンマドの血縁者を後継者としているのに対してスンニ派は血縁関係のない人がカリフに選ばれていたのです。
その他の違いはシーア派は偶像崇拝に寛容であったり、アシュラというお祭りの開催、お祈りの回数などの違いがあります。
第一次ワッハーブ王国建国
ワッハーブ派はスンニ派に属しており、西洋的な文化を否定しイスラム原理主義とも呼ばれる宗派です。
創始者はムハンマドイブンアブドゥルワッハーブで、1744年にサウド家のムハンマドイブンサウードとディルイーヤ盟約を結びました。
この盟約を結んで以降サウド家はワッハーブ派の保護者となりました。
18世紀にはオスマン帝国に押されイスラム王朝の力が衰えていましたがサウド家とワッハーブは手を組み力を合わせていくことが約束されたのです。
ワッハーブ派とサウド家が一つになり、第一次ワッハーブ王国が建国されたのです。
強硬なワッハーブ派はメッカ、メディナを征服し、更に勢力を伸ばそうとしていました。
それを警戒した当時のオスマン帝国がエジプト軍に要請しメッカを奪還させました。
その後、サウド家の中心拠点であるディルイーヤを攻撃、ワッハーブ王国は陥落したのです。
第二次ワッハーブ王国
1823年頃、少数残っていたサウド家の勢力内で内紛が勃発しました。
サウド家とラシッド家が争った結果サウド家が勝利しリヤドを首都として第二次ワッハーブ王国を建国しました。
第二次ワッハーブ王国は65年ほど続きましたが、建国当時負けていたラシッド家がオスマン帝国に支援され1889年にリヤドを奪還したのです。
こうして1889年ワッハーブ王国は再び消滅したのです。
まとめ
サウジアラビアはサウド家のアラビアという意味でワッハーブ王国が滅亡した後、サウド家が建国した国です。
サウド家はイスラム教のワッハーブ派の厳格な教えである宗教的権力を基盤とし、その後発見された石油資源をも掌握したのです。
ディルイーヤの盟約から何度も立ちあがりワッハーブ王国からサウジアラビアという石油で潤う王国になったのです。